2009-08-18の読みさし
下流志向──学ばない子どもたち、働かない若者たち:100%
- 作者: 内田樹
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2007/01/31
- メディア: 単行本
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「想定外」の問いかけ
子どもに「なぜ学ぶ必要があるのか」と問われたら、私はどう答えるだろう。この手の質問、たとえば「なぜ人を殺してはいけないの」「なぜ戦争をしてはいけないの」などをされたとき、自分だったらそうどう答えるべきか、考えることがある。こう答えるのがいいのではないか、と考えていたのは、「私にもよくわからないい。いっしょになぜだか考えてみよう。」というものだった。また、別の答え方として正しいのかもしれない、と思ったのは、「ダメだからダメ」という、ある意味理不尽な答えをするもの、「大人ならわかるでしょ」という理不尽さを押し付けるものだ。こういう答え方はマンガ ザ・ワールド・イズ・マイン 1 (ヤングサンデーコミックス) から学んだ。
で、この本では、こういう問いかけをされた場合、驚愕のあまり絶句するのがまっとうな大人であるとしている。
そういう問いかけそのものが「想定外」なのだというところから始めたならば、「教育とは何か?」 という根本的な問題に大人たちも子どもたちも向かうことになったでしょう。 しかし、残念ながら現状はそうはなっていません。 大人たちもまた「そのような問いかけがあってしかるべきだし、その問いに対して、 子どもたちにもわかるような答えがなければならない」と考えている。 これが最初の、最大の「ボタンのかけ違え」だと僕は思っています。
私自身は「そのような問いかけがあってしかるべきだ」とは考えていて、「子どもたちにもわかるような答えがなければならない」とは考えていない。しかし、その問いかけが「想定外」なのだ、という発想はなかった。「教育とは何か」について考えを深めるために、そういう問いかけが「想定外」なのだ、ということをもっとよく吟味したい。
子どもと家事労働、消費主体としての子ども
この本では、子どもたちは、昔は労働主体として自己を確立してきたけれども、現在は就学前にすでに消費主体として自己が確立されてしまっている、と指摘されている。労働主体というのはすなわち、家事労働の担い手となってきた、ということだ。
私は、子どもにはできるところから家事をやらせたいと考えていた。それは、ないがしろにされがちな家事労働が、まさに「生きる」ということを体現しているものであって、苦役としてではなく「楽しいもの」として習得してほしいからだ (家事こそが生きるということの体現 - 昨日知ったこと)。これは私自身の体験の裏返しである。というのも、私は長く親元に住んでいて、料理や洗濯などをすることなく結婚してしまったから。そして今は家事をするのに、気持ちの上で「よっこいしょ」とかけ声をかけないとできないことがままある。家事を楽しんでできるときも少なくはないが、苦役と思ってしまっているときもある。子どもたちにはそうなってほしくない、と考えてきた。よく「おうちのお手伝い」みたいな言い方がされるが、それにはちょっと違和を覚えている。「お手伝い」というよりも、もっと主体的に関わってほしい、と考えている。そのために私ができることは、家事労働を楽しんでやってみせることだと思う。
で、小さいうちから消費者マインドを確立していることが問題とされている。なるほど。私は人々が「消費者」という立場を取りたがることになにか危うさを感じている (我々はいつから消費者という立場を固定的に取り続けるようになったのか - 昨日知ったこと、外食の食品が汚染されていたら - 昨日知ったこと、食材ということばの功罪 - 昨日知ったこと)。子どもにその危うさを感じてもらう、違和感をもってもらうにはどうすればいいのだろう。
自己評価と他人からの評価
私は「自分探し」というものがいまいちピンとこない。なので、「自分探しイデオロギー」に冒されてはいない、と考えていたけれど、次の文章を読んでギクリとした。
問題は「自己に外在的な目標をめざして行動するよりも、 自分の興味・関心にしたがった行為のほうを望ましいとみる」という点です。 かりにひろく社会的に有用であると認知されているものであったとしても、 「オレ的に見て」有用性が確証されなければ、あっさりと棄却される。
そういうような思考がなかったとは言えない。最近は社会における自分の位置付けを考えるようになったけれど、少し前までは、社会とは自由に、つまり社会から干渉を受けないし、社会に対してコミットもしない、という立場をとっていたような気がする。しかし、ごくごく当たり前だけれど、自分自身の評価よりも、他人につけられる評価の方が重要、というよりも、自分自身の評価なんて社会的にはどうでもよくて、他人から見て使えるかどうかしかない。
迷惑をかけ、かけれらる共同体
本書では、リスクヘッジのための中間共同体が、イデオロギー的に破壊されてきたことを指摘している。私は「他人に迷惑をかけないようにすること」に異常にこだわっていて、少し前までは身内にもできるだけ迷惑をかけないように、と心を砕いてきた。血縁地縁的な人間関係も希薄になることを望んでいた。
しかし、子どもが産まれることになって考えが変わってきた。子どもが育つ環境として、核家族は好ましくなく、いろいろな人間関係が織り混ざっているのがよいのではないか、と考えるようになった。そして実家の近くに引越した。今は家族とも迷惑をかけ、かけられるようにしていこうと考えている。
転職とキャリアダウン
実際には、転職を繰り返す人は、主観的にはキャリア・アップをめざしているつもりでも、 長期的には階層下降しているケースが多い。 これはある意味必然だと思うんです。
というのにもギクリとさせられた。私が転職したのはキャリア・アップのためではなかったけれども。
師であることの条件
「師であることの条件」は「師を持っている」ことです。
なるほど、そうだったのか。そうか。よく考えてみよう。