相次ぐ「食への信頼を揺るがす事件」への報道

相次ぐ、食への信頼を揺るがす事件、とその報道。「何を信頼すればいいのか」という街の声。それをきいて私の頭に浮かぶこと。

濃淡のない単純な対立モデルの弊害

これは仮定でしかないが、「何を信頼すればいいのか」という発言が出てきた雰囲気から察するに、信頼していた○○に「裏切られて」しまってどうしていいかわからない、ということだろう。たとえば、「中国産は危険だから国産を選んでいたのに、国産でも食品偽装が続いて、もう何を信頼して選んでよいやら。」という風に。そこに見え隠れするのは、次のような構図である。

[事件 1] 中国から輸入している食品で問題が発生
└[対立モデル 1] 中国の食品/危険 ⇔ 国産の食品/安全
  └「国産食品」への「信頼」

[事件 2] 国産の食品で問題が発生
└[対立モデル 2] 表示のない食品/危険 ⇔ 表示がある食品/安全
  └「表示」への「信頼」

[事件 3] 表示偽装の問題が発生
└[対立モデル 3] ?

まず [事件 1] は、正しくは中国からの輸入食品の一部に問題が発覚した(とが報道された*1)、ということである。当然、中国からの輸入食品のすべてが危険なわけでもないし、程度の差、全般的な傾向は存在するとしても、日本国内の食品でも似た事例が潜在的に存在するであろうことは、少し考えればわかることだと思う。しかし、単純に [対立モデル 1] を採択してしまう人が多いように思う。無論、輸入食品と国産食品の間には、国ごとの安全基準の違い、個々の食品に対する価値基準の違い、距離の違い、などから生じる、安全度の差は有意にあるだろう。そこで考えるべきは、その「有意な差」と、「中国からの輸入食品、国産の食品、それぞれの中での安全度のばらつき具合」との間のバランスであるべきだが、なかなかそうはならない。考えるのが面倒なのか、そのバランスをどう考えるかを「考え中」にし続けておくのが面倒なのか。
もう一つ、[対立モデル 1] が作り出されやすく、また受け入れられやすい理由が、anti- を信頼することによってとりあえずの安心は手にできる、ということがあるように思える。つまり、「問題があったほうの集合」に対する補集合としての「国産」ならば、無条件に安心して口にできる、というものである。本来ならば自分自身で考え、感じて判断するというコストをかけたほうがいいところを、[対立モデル 1] を採択することにより、「国産」というラベルを見ただけで、自分で自分の行動にリスクを負わずに、安心して口にすることができる。

各種メディアも視聴者に受け入れられやすいように、という判断なのだろうか、単純な対立モデルを背景にしたテーマで報道し、討論を流し、意見を述べる。
こうして、[対立モデル 1] が「国産は安全」というところで思考停止した消費行動につながっていく。

[事件 2] が発生したとき、単純な [対立モデル 1] を採択していた人は、「国産を信頼していたのに」「裏切られた」という憤りを覚えることになる。実際は裏切ったわけではない。誤解を恐れずに言えば、勝手に [対立モデル 1] を採択し、勝手に信頼していたのである。
[対立モデル 1] の限界を考えていた人にとっては、「そういうこともあろう」という捉え方になり、自己の中のモデルに修正を加えていくことだろう。しかし、安易に [対立モデル 1] を採択してきた人は、新たなモデル [対立モデル 2] を採択してしまう。安易に対立モデルを選んだことが問題だったとは考えず、別の対立モデルを採択してしまうのである。

「何を信頼すればいいのか」という問いに対するシンプルな答え

もっともシンプルな答えは、「自分」だろう。どの権威を「どのくらい」信じるのか、どの人を「どのくらい」信じるのか、それは自分次第である。そして重要なのは、何を信じるかということではなく、何をどれくらい信じるか、ということである。信じる/信じない、の二値ではなく、半分くらい信じられる、まず間違いないけど違ってもそうは驚かない、など、無限の強さの信頼性を持つ必要がある。また、別々のソースから信頼されているものは、それだけ信頼性が高くなる、など、複雑な相互関係をその複雑さのまま受け入れておく必要がある。

ちなみに、私自身は信じているものというのはあまりないかもしれない。何事においても、これくらいの確率で正しいだろう、と思っているのではないか、と考えている。

続く

またもや時間切れ。この後、「報道」の役割とは、という辺りを考察する予定だったけど、また今度。

*1:この「発覚した」と「発覚したと報道された」ことの違いも重要なのだが議論が複雑になるのでまた別のときに