我々はいつから消費者という立場を固定的に取り続けるようになったのか

消費者というのは、貨幣経済において、ある商品がそれ以上貨幣に交換されないロール(役割?)を表わす語だと思う。逆にある商品を取得し再び市場に供給するのに貨幣との交換以外の手段を用いるロールが生産者、ということで。ここで前提になっているのは、(1) ある商品(サービスとか無形のものも含む)に限定したロールであること、それから、(2) 複雑な実社会を「貨幣に交換可能な価値だけを価値とみなす」という単純なモデルに当てはめた場合であるということ。(1) は、コメの生産者も家電製品の消費者だよね、という簡単な話。(2) は、粗く言ってしまえば、世の中には priceless なものもあるけど、そういうものがないって前提で議論しようよ、という話。

消費者庁がどうのこうの、というご時勢、我々はなんか固定的な立場として自分を消費者に位置づけてしまっているような気がする。私自身、「農家が健全な自立した経営体になるためには、消費者の啓蒙、教育に力を注がなければならない」なんてことを先週まで考えていたりした。だけど、それはすでに貨幣経済、消費社会のスキームにはまってしまった思考なんではなかろうか。世の中を単純化して説明付けるために作られたモデルなのに、いつの間にかそのモデルに沿うような思考しかしないようになってしまっているのではないだろうか。そこから抜け出した発想が出てこないと、結局はグローバリゼーションの波からは逃れられないのではないだろうか。

今年は春から農業の真似事をさせてもらって、野菜の多くを自給した。このとき、自分はナスに関して消費者ではないし、生産者でもない。貨幣経済モデルに収まらないところにいる。この差はなんなんだろう。理由を、自分が手を動かしたことに求めるのはたやすいが、それだけでは思考が浅い気がする。もし、自分が手を動かさなくても、来年その農場で取れた余剰作物を送ってもらうとしたら、対価としてお金を払ったとしても、自分は消費者という立場ではないと感じるのではないだろうか。無論、貨幣が介在した部分については、単純モデルとして適用される貨幣経済が適用され、そのコンテキストにおいて消費者である。だけど、そのコンテキストにおいてのみ、消費者だと感じるだろう。それは作った人の顔が見えているとか、一年近くそこで農作業をさせてもらった経験とか、一緒に作業した人の顔とか、そういう単純モデルに収まらない豊かな価値を確かに感じるからだろうと思う。

自分にとって鶏肉は、安いかどうか、おいしそうかどうか、国産かどうか、という視点でしか見ることのできない商品である。今のところ。でも、もし、その鶏肉がどういう場所でどういう餌を食べて、そしてどうやって生き、どうやって殺されたのか、を知れば、単なる消費者ではなくなると思う。自分自身でしめることが重要というわけではない。でも、そこに触れずに、知らずにいることは豊かな価値を放棄しているような気がする。

今日はこの辺までにしておこう。