ネガティブなニュースを見ない件

ネガティブなニュースを見ない、ことをよしとしつつ、ネガティブなニュースを流すことにより「ネガティブなニュースを見ない」に反する行為を他者に強要してしまったと考えている人に。

「ネガティブなニュースを好んで求める」のと「ネガティブなニュースを見てしまう」のとは明らかに違う。ワイドショーやらネットの一部世界には前者の「野次馬」的嗜好性が溢れている。私はそういうのが嫌い*1

「ネガティブなニュースを見てみないふりをする(臭いものに蓋)」のと「ネガティブなニュースを見てしまう」のも違う。お気楽さ、心地よさを求めて作られた仲良しこよしコミュニティには前者となることを強いるものが少なからず存在する。現実世界に住み、責任ある人間として生きていく(私にとって)普通の人間として、私は前者でありたくない。

世の中にはネガティブなニュースが溢れている。これは単に世の中にはポジティブなことにもネガティブなことにも溢れているから。ネガティブなニュースとポジティブなニュースの双方を取り上げたとしても、ネガティブなニュースは相当数になる。実際には、マスコミなどのメディアは視聴率を稼ぐためにネガティブなニュースを大きく報道する。その点を取り上げてメディアを批判するのはあたらない。ネガティブなニュースを流すほうが視聴率が稼げる、というのは、視聴者たる我々人間の大半が、「野次馬」的嗜好性に溢れているという事実から引き出される単純な結論である。

ネガティブなニュースに触れ、ネガティブな思考に陥るのはきわめて健全。私個人としては、ネガティブなニュースに触れて「みないふり」をする人、「ポジティブに考えようよ」とあまりに無邪気に言うだけの人とはあまり仲良くなりたくない。

なので*2、私はテレビはほとんど見ないし、ネットを使っていても画像共有サイトだの動画共有サイトだのにもまったく興味がない。2 ちゃんも興味がない。知りたい語句で検索して検索結果によさそうな情報源として 2 ちゃんがあっても、その結果はたどらない見ない。何かしらのリンクを踏んで 2 ちゃんに到達しても、すぐブラウザのウインドウを閉じる。

人は与えられている刺激が強くなるにつれ、その刺激に慣れ、より強い刺激を求める。より強い刺激でないと感知できなくなる。生物としては生存上、致命的な欠陥だがそのことがあまり問題にされることはない。せいぜい敏感なままであるのは「空気を読む/読めない」という対人関係の刺激か。

私は野次馬的嗜好性に満ちた場所には近づかないようにしている。物理的に言えば都市、特に渋谷。渋谷に居ると強力な負のエネルギーを受けているようで精神的にひどくまいる。ネット上では先にあげた 2 ちゃんとか。「はてな」もいくつかのサービスを便利に利用させてもらっているが、「最近の人気記事」「最近の人気キーワード」「最近の人気ブックマーク」とかは見に行ったことはない*3。みんなが興味を持っているもの、というのは、結局、「より刺激の強いもの」「よりネガティブな方」にバイアスがかかっているからだ。君子危うきに近寄らず。

昔、「情熱の薔薇」がヒットしていたときには、「なるべく小さな幸せと、なるべく小さな不幸せ、なるべくいっぱい集めよう」、そんな気持ちはわからなかった。今ならわかる。強い刺激に慣れた人は、ネガティブなニュースもポジティブなニュースも刺激が強くないと認知できない。アンテナの感度が鈍ってしまっている。

人生には小さなことでもいくらでも幸せを感じられることがある。

私は幸せだ。

*1:断言しつつも、まったく野次馬的嗜好性がない、と否定できない弱さも併せ持っている、と思う。

*2:意味的接続は、接続詞「なので」でつなぐには若干弱いが ...

*3:それがはてなも含んだ WEB 2.0 サービスのウリなんだけどね。