失言大国

舌禍事件、というか「誰それがこんなことを口にした」という失言の報道が多い。またか、という印象を受ける。

私が見るところ、これらの舌禍事件は「メディア」と「公憤に駆られたあまり賢くない人」によって作られている。ある人があるコンテキスト*1の元で発言をする。そのコンテキストは、人のあらゆる社会的行動が持つコンテキストと同様に複雑である。どういう人が集まっているのか、どういう経緯で開催されたものなのか、集まった人の思いは、発言する人の立場は、体調は、知識はどうなのか。公の場で、公人として発言するのであっても、社会的存在たる人間は、そのコンテキストに従って発言する。
そこにカメラが入り込む。ささいなことでも「失言」に取れそうなものは「失言候補」として切り取る。コンテキストから意図的に切り取る。その時点で発されたことば(音声、映像)は、解釈とは独立した単なる素材になる。
次に行われるのは、この「失言候補」素材を「失言」に仕立て上げるためのコンテキスト付け、である。「こんなこと言っていますけど、どう思いますか」と、それが「失言」であるかのように仕立てて、その発言に反発しそうな人に意見を求める。「この意見を求める行為」を馬鹿馬鹿しい、と思ってスルーいる人がいても、メディアは困らない。別の反発しそうな人に意見を求めるだけである。そこで一件でも「ひどいことを言っている」と青筋を立てて怒る人の画が撮れればそれでよい。質問の向け方、質問する人を選ぶこと、そしてその反応を撮ること、これらが単なる素材だった「失言候補」に付与された新たなコンテキストであり、コンテキストを得た「失言候補」は見事「失言」に昇格する。ニュースに流すことにより、一部の人は公憤から抗議の電話をし、ネットで失言を批判する文章を載せる。それが新たなコンテキストになり、「失言」の度合いは高まる。メディアはことが大きくなればなるほど、自分達のやったことの正当性を得られるので、あおりつづけることになる。「賢い人」は単に沈黙するだけであり、メディアとあまり賢くない人によって正のフィードバックがかかった舌禍事件は、飽きるられるまで成長を続ける。

メディアは血眼になって、自分達の取材ネットワークを使って「失言候補」を集めている。正義感溢れるあまり賢くない人も、自分が抗議、コメントできる「失言」の登場を待っている。

名指しはしないが、ある政治家のかたが「失言」に対して怒りのコメントをする際にほとばしっている「賢くなさ」にあきれている。よく使われる文句は「○○に失礼だ」だろうか。最近、とみにひどい。メディアとしては、「失言」を強調するためにかの人に意見を求めるのだろうか。それとも、その「賢くなさ」をちゃかそうとして、「賢くなさ」を強調しているのか(ここでもメディアは自分達の見せたいようにコンテキストを付け替えているのだ。当たり前だけど)。

我々は、「音声を伴った映像」は「真である=解釈は一つしかない」と思いがちである。しかし、コンテキストによって、解釈は変わる。変わる方向もある程度コントロールできる。そのことを忘れてはいけない。この話はまた改めて書くこともあると思う。

こうして全国津々浦々にちらばった、たくさんの小さな「失言」を見つけ出す「メディアと視聴者、ネットの住人によるネットワーク」は、環境学者からラムサール条約に登録すべき対象を見つけ出す効率のよい機構として注目されている。

*1:背景と言ってもいいかも