手触りを感じる生き方

利己的な私

私がどういう考え方を基本として、何をいちばん大切にして生きているかをお話しましょう。
端的に言いますと、私は「自分の魂が喜ぶ」ことをいちばん大切にしています。「自分にとってほんとうに心地よくいられること」をいちばん大事にしている、と言い換えてもいいです。言ってみれば、自分勝手、自分本位、利己的な考え方です。実際、私自身もそう思います。

でも、私は、身近な人から「自分勝手な人だ」と評されるよりも、「周りのことも考える人だ」と評されることが多いと思っています。これは別に不思議なことではありません。私にとっては、自分自身が楽しくても、身近な人が楽しくない状態は「ほんとうには心地よくない」のです。身近な人が幸せであると自分も幸せを感じるし、身近な人が楽しそうであれば、私自身も楽しいので、そうなるように努力するのです。友人と二人でいて、二人ともおなかが減っていて、おにぎりが一つだけある場面を考えてみます。このとき、私だけが一つのおにぎりを食べた場合、お腹は満たされますが、相手が辛い立場に残されるので、私は心地よくはなれません。むしろ、相手に食べてもらったほうが、私自身は心地よさを感じます。私にとって、いちばん心地よく感じるのは、二人で半分ずつ食べることでしょう。

普段の生活でも、多少自分の心身が辛くても、身近な人が喜んでくれるのであれば、そのほうが幸せです。心地よいです。自分の魂が喜んでいると感じます。

念のために書いておきますが、私は、こういう生き方が正しいのだ、みんなそうすべきだ、と言いたいわけではありません。私自身、こういう生き方をしてしまう性格だ、ということと、そしてこういう生き方をしたいと思ってしている、ということです。できれば、君たちにもこういう生き方をしてほしいとも思っています。

利他的な生き方

人間は、人間との関わりの中で生きる生物です。社会的な生物です。ですから、「人のため」に何かすることが「よいこと」とされています。たとえば、「他の人のことも考えて行動しましょう」とか「会社のために」あるいは「社会のために」、「みんなのために」行動することがよしとされています。さらには、「地球環境のために」「世界平和のために」など、大きな視点で考えて行動することがよいこととされています。

しかし、私個人としては、このような利他的な生き方ができません。最低限、決まりを守る(法律であったり、礼儀であったり)ようにはしていますが、あまりに大きすぎるもの、抽象的なものに対して、「○○のために」と思うことができないのです。想像することはできるのですが、ぼんやりとしたもので、手触りを感じることができないのです。これは、私自身の欠点なのかもしれません。

一方で、手触りを感じられる範囲で考え、行動する、というのは、道を誤らずに進む、よい生き方なのでないかと思うところもあります。というのも、利他的な生き方、抽象的で大きなもののために道を誤らずに行動するのは、ひどく難しい、誰にでもできることではないだろうと考えるからです。「お国のために」「教義のために」若い命を散らせる兵士の行動が、ほんとうに賞賛すべき結果につながっているのでしょうか。「地球温暖化を防止するために」している庶民の行動が、ほんとうに温暖化防止に寄与しているのでしょうか。

身の丈にあった生き方

世の中には、世界平和について手触りを感じられるような器量の持ち主がいて、そういう素晴しい精神の持ち主が世界平和に対する行動をするのは、よいことだと思います。想像するに世界平和についての手触りは、ひどく痛い辛いものだと思います。私は、せいぜい自分と身近な人々の生活ぐらいしか手触りを感じられませんが、それでもけっこう心身ともに大変な思いをしています。手触りを感じられる範囲で精一杯努力して生きています。

いずれにしろ、君達には手触りを感じられる範囲で精一杯努力して生きていってほしいと思います。世界平和の手触りを感じられるのであれば、世界平和のために生きてください。そうでなければ、もっと身の丈にあった生き方をしてください。世界平和の手触りを感じながら怠惰に過ごす人よりも、自分と家族のことにしか手触りを感じられないが、その範囲で精一杯生きようとする、そんな人になってほしいと思っています。

■□「こどもたちへ」一覧□■