日常を生きる

日常を大切に過ごすということ

私は、日々の日常をいかに豊かに過ごすか、ということに腐心しています。腐心、というほどでもないかもしれませんが、普通の生活を大切にしたいと思っていますし、実際、大切にしているつもりです。根底にあるのは、明日死んでもいいと思って生きているということ、それと、カタルシスを非日常に求めなくても、感覚さえ持っていれば、日常から豊かな機微を感じとることはできる、ということがあります。

明日死んでもいいと思って生きる

明日死んでもいいと思って生きる。これはわりと簡単です。具体的に何かしなくてもいいのです。明日死んでもいい、と思えさえすればいいのです。私が是としている別の指標「何をするときでも、人の目のあるなしに関わらず同じ行動をする」ということよりも、はるかに易いのです。
私の考えるところでは、人生において、やりたかったことをすべてやり遂げた、という状態はやってきません。したがって、いつ死んだとしても、やり遂げたかった何かは中途半端であり、まだ手をつけていない「やりたいこと」が存在するのです。実際、私は、圧倒的に多数の「やりたかったこと」「やっている途中のこと」がある状態で死に臨みたいと思っています。なので、今は死ねない、という時期はないと思っています。ほんとうに、いつでも O.K. です。と言っても、もちろん、死にたいわけではありません。招かざる客だけど、早晩来ることはわかっている客、ということです。

この考えかたは、日々の生活を豊かにするようです。たとえば、私にとっては、気のおけない友人と語らう時間は、何ものにも代え難い貴重な時間ですが、その日のその友人との別れは、常に今生の別れだとの覚悟を持っています。明日死ぬとしたら、今生の別れになるわけですから。これが会う最後の機会だと思うと、飾る言葉やら駆け引きの言葉は無駄だと思ってしまいます。やりたいことをやり切って死ねないのと同じように、語りたいと思うことをすべて語り切ることなどできないと思い、その思いは、会っている時間をできるだけ密にしようという思いにつながります。何げない会話しかしていないようでも、その人との時間を目一杯大切にしようとするのです。

今生の別れを日々繰り返す、というのは、あまり利口なことではないのかもしれません。今生の別れに慣れはしますが、気楽にはなりません。

ケを生きる

ハレとケという民族学的、文化人類学的概念があります。年中行事や冠婚葬祭、祭りなどでは、普段とは行動様式、価値観から使用するモノや場所さえも違う、特別なものになっている、というものです。日常(ケ)に対置される形で非日常(ハレ)があります。もともと、これらの概念は、現代においてはハレとケの境があいまいになってきた、という民俗学的研究が要請したものでした。つまり、昔はお正月にしか食べなかったものを普段から食べたりする、など、特別の日のものがどんどん特別でなくなっていくことを説明するためのものでした。
私の考えるところ、儀礼的な意味でのハレとケの境はどんどんあいまいになって、生活時間はどんどんフラットになっていったのですが、我々に刻み付けられた「ハレを求める心」は、別の形のハレを産み出していきました。人はそれをイベントと呼びます。お誕生会とか、母の日とか、バレンタインデーとか、旅行とか、忘年会とか、○○祭とか。

私は、そういう類のハレ、イベントを好みません。人為的につくられた起伏がなくても、人生は起伏に富んでいます。何げない日常の中に、細やかな起伏があります。私は、そういう日常の細やかな起伏に敏感でありたい。ケの微妙な手触り、温もり、匂いを感じていたいし、感じられる心と体でありたい。そう思っています。

私は、結婚後、一年くらいで君達のお母さんと同じ職場に転職しました。夫婦で同じ会社に所属するのは、職業的危機管理の上ではよくないと考えていました。それでも、わざわざそうしたいちばんの理由は、同じ空気を吸い、同じ景色を見、たわいもない会話をしながら、日常の中の細やかで豊かな起伏を、二人で共有していきたい、と思ったからです。君達のお母さんは、どちらかというとハレが好きな人だと自覚しているでしょう。でも、だんだんとケを生きる喜びに気付きはじめてしまった、と思っていることでしょう。最初のうちは旅行に行くのをしぶる私に業を煮やしていたのに、次第に、会社に向かう途中に遠回りして公園を横切る楽しみに気づいていったことでしょう。ほんとうは、ケを生きる楽しみがわかるように、と私が仕向けた結果として変わったんじゃなくて、そういう時間を一緒に楽しめる人だから、一緒に過ごしていられて、結果として結婚することになっただけなんですけれども。

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