文化進化論、という不適切な名づけ

通常、文化進化論という語で示されるのは、あらゆる文化は未開から原始、狩猟、農耕、工業、情報というように一方向へ進んでいく、という見方を表わす。そういう意味ならば、「文化定向進化論」とすべきである。なぜなら、生物は単純なものから複雑なものへと一方向に進化してきた、とするのは、基本的にダーウィン以前の「定向進化論」であり、現在正しいとされている進化論とは相容れない考え方だからである。

「定向説」「定向論」の魔力は強力だ。おそらく「秩序を愛する心」と「優越感を感じたい心」が、これらの魔力の源泉だ。われわれは、わわれわ自身のありようが、まったくでたらめな、偶然の産物で、たまたまそうなっているだけ、ということを好まない。合目的的にまっすぐ進歩してきたのだ、と思いたい。それが「秩序を愛する心」である。
また、われわれは、自分たちがもっとも進んでいると思いたい。あの人の行動が理解できないのは、あの人の精神が私より劣っているからだと思いたい。自分もあの人も同じくらい頭がよくて、同じくらい狂っていると認めることを好まない。それが「優越感を感じたい心」である。