人生の書、次郎物語

私の人生にもっとも大きな影響を与えた女性を一人挙げるなら、母、というつまらない答えになってしまうので、私の人生にもっとも大きな影響を与えた「母以外の女性」を一人挙げると、それは小学校のときに同級生だった、Y.O. さんになるかと思う。
当時、一年を通してランニングシャツに短パン、というどこの小学校にも一人はいそうな季節感ゼロの私は、「できる子」「椅子の上に正座で座って注意される子」「いつまでも学校に残っている子」「たくさん、しかも難しい本を読んでいる子」として知られていた。細かい経緯は忘れたが、そんな私に、挑戦的な態度で「こんな本は読める?」と、一冊の古びた厚い本を差し出したのが、Y.O. さんだった。「椅子の上に正座で座って注意される子」を凹ませてやろうと、いや、「たくさん、しかも難しい本を読んでいる子」を凹ませてやろうと、自宅にあった本の中から刺客たる本を厳選してきたのだろう。その本が下村湖人の「次郎物語」の一巻であり、その瞬間が、私の人生の書との出会いであった。

多読といっても、当時読んでいたのはブルーバックスなど理工系の本ばかりで、文学作品など興味も持っていなかった私にとって、「お猿さん」という節で始まる次郎物語の冒頭は、馴染みのない明治期の生活様式の描写で面喰らわされるものだった。しかし、その後、何か琴線に触れるものがあったのか、全巻を一気に読んだ。
自分で文庫本を買ったのは中学生のときだったろうか。ともかく、ひどく内省的だった私の心の中に次郎物語は特別の場所を占めることになった。中学生のとき、高校生のとき、大学生のとき、大学院生のとき、と、数年に一度くらい思うところがあって通読し直し、そして毎回違うところに心動かされる自分を発見することになる。敬虔な信者にとっての聖典とはこういうものなのだろう、と思うことしばし。

心ある友人には、次郎物語の文庫本を貸して感想を求めてきた。その中のある人は教育の書と捉えたという。自ら考える規範の書と捉えていた当時大学院生の私には意外であった。しかし、社会人として、家庭人として、再生産を養成される立場になった今、それもわかるように思う。

いまだに冬になると挨拶がわりに「寒くないの?」と問われる私は、「まあまあできる人」になり、「誰にも怒られることもなく椅子の上に正座で座ったりする人」になり、「結婚してようやく会社に泊まってばっかりじゃなくなった人」になり、「少しばかり本を読む人」になったけれど、次郎物語は人生の書であり続けている。ここ数年ひもといていない次郎物語を、また通読してみようと思う冬至の日向である。