クリスマスの季節

クリスマスの季節

君たちの生きている時代ではどうなっているかわかりませんが、今、私がこれを書いている 12 月半ばは、クリスマスに向けて街が華やいでいく時期です。人様から見たら、偏屈で面倒なやつだと思われるでしょうが、私は毎年、居心地が悪くてしょうがない思いをしつづける時期がやってきたな、と思うのです。人混みも好きでないし、きらびやかなイルミネーションも好きでないし、クリスマス会へのお誘いを断わるのも骨が折れるのです。

宗教的に節操がないとか、そういう話ではなく(それもまったく関係ないわけではありませんが)、ごく個人的な理由で苦手なのです。日本的なクリスマスの雰囲気を楽しめる人は、楽しむのがいいと思います。私には恥しくて口にできない「メリークリスマス」という言葉を、挨拶として違和を覚えない人は、どんどん「メリークリスマス」と口にして挨拶すればいいでしょう。

祭ぎらい

私がクリスマスシーズンに陰鬱になりがちなのは、単に「祭ぎらい」である、ということが大きいと思います。「祭」にも、「宗教的儀礼としての祭り」「単なるバカ騒ぎとしての祭」の意味がありますが、私はどちらも苦手です。*1

人混みぎらい

ごくごく単純な話からしますと、私は人混みが嫌いです。自分の身体のコントロールが制限されること、潜在的根源的な危機を漠然と感じること、が理由として挙げられるでしょうか。潜在的根源的な危機、というのは、平たく言えば、人がたくさん集れば、自分に危害が及ぶような「危険な行動を起こす人」「危険な伝染病を持った人」などがいる可能性が高くなるよね、ということです。さらに、「自分の身体のコントロールが制限される」がゆえに、不測の事態が発生したときに危険を回避する行動が取りにくいということもあります。
そうそう、群集から受ける負のエネルギーも無視できません。「負のエネルギーを受ける」というのは名状しがたい精神的圧迫を受ける、という意味でもありますが、周りの人々の会話に含まれる負の感情に敏感になってしまって影響を受ける、という意味もあります。私はそういうやっかいな精神的特徴を持ってしまっています。でも、ジョン・コーフィーじゃなくてよかったと思っています。

そんな訳で、人混みに出ていくには、相応の気構えと、それでもそこに行くに値する高い優先度の事柄が必要なわけです。

信仰心への尊敬

日本各地にあるお祭り、いや日本に限らず伝統を持ったお祭りというのは、元来宗教儀礼ですよね(商店街の何とか祭とか、文化祭なとかは「伝統を持った」に入れていません)。特定の宗教、宗派がどうのこうの、という話は別にして、何か人智を超えたものに対して、畏れと敬いの念を表明するイベントだと思います。そこには確かに人々の宗教心が存在していると思います。
私は特に特定の宗教を信じてはいません*2。これは宗教を軽視していることと同じではありません。宗教云々という大きなレベルになるとさっぱりわかりませんが、ある人が信じているもの、というその人があるものを信じているということ、は尊重しています。他人の信仰心は、私には理解できませんが、尊重しています。いや、理解できないからこそ、信仰を持っていることへの憧れとともに尊重しているというほうが正確かもしれません。

そんな訳で、本来の宗教的意義を逸脱した「祭」は嫌悪しています。各地に残る奇祭がなぜ奇抜かといえば、それが宗教的な起源を持つからでしょう。しかし、現在は、その奇抜さだけがピックアップされたりします。奇抜さな因習の裏には、なにがしかの意義があるはずです。いえ、もしかしたら、因習というものは、そもそものの起源や意義を問わずに従うから因習なのかもしれません。しかし、だからといって、その因習をないがしろにすることには抵抗があります。少なくとも、私は、真摯に祈る人をばかにすることはできません。

クリスマスは、クリスチャンにとっては、宗教的な意義のある儀式でしょう。そういう宗教的な儀式を軽々に扱うこと、信仰心を踏みにじるような行為をしてしまう危険性を犯すこと、それらをしたくない、というのが、私がクリスマス会とやらを断る理由です。

ハレの忌避

「お祭」が苦手な理由には、もうひとつ、「単なるバカ騒ぎ」である「祭」やら、ライトアップやら、さまざまなイベントが苦手なのと同源の、「ハレ」への忌避感があります。
これについては、また改めて別の機会に示すことにしましょう。

■□「こどもたちへ」一覧□■

*1:何となく、前者は「祭り」で、後者は「祭」、と書いています。

*2:これについてはまた書き記す機会もあるでしょう。