貸し借りのない淡いつきあい

貸し借りなしの淡いつきあい

前に書いたと思いますが、私は明日死んでもいいと思って生きています。そしてそれは、常に貸し借りなしで生きたい、という考えとつながっています。人との関わりにおいてもそうです。

この考え方の一つの現れは、「現に今向かいあっている人とのやりとりに注力する」という行動です。向かいあう、という中には、電話や手紙なども含みます。より密度濃く、より真摯に向かいあいたいと思っていますので、電話よりも直接会う、というほうを好みます。さらに言えば、話をしたい相手が明確な場合は、その人と二人で会うことを好みます。双方にとってなじみのある人だとしても、誰か他の人がいる場合には、話したいという気持ちは少なくなります。四人以上人が集った場合は、話すことをあきらめます。
そうやって、「現に今向かいあっている人とのやりとりに注力」するので、過去の人のつながりにはかなり淡白なほうです。実際のところは、「現に今向かいあっている人とのやりとりに注力すること」と、「過去の人のつながりに淡白なこと」との因果関係はないのかもしれません。いずれにしろ、5 年前のことは意識の中では大昔になってしまい、当時の人間関係もほとんど覚えていない、という状況になります。この性向によって、損をしていることも少なからずあると思います。冷たい人だと捉えられることもあれば、人を傷つけることもあるでしょう。

貸し借りなしで生きたい、と思っていますが、実際には、人は人に依存せずに生きることはできない存在だとも思っています。依存せずに生きることができないからこそ、それに甘えることがないよう、自分を律しているのかもしれません。

そんな私は、友人、知人といえる人脈は数えるほどしかありません。それでも、素のままの自分で行動していて、それを快く受け入れてくれる人には出会います。数年に一度は出会います。そういう人脈だけで困ったことはありません。
そして、そういう貴重な友人に対し、私は貸し借りなしの真剣勝負に臨むのです。「こんなことを言ったらこの関係が壊れてしまうかもしれない」という思いをいだいても、言うべきであると考えたら言うのです。人と向きあうときには、常に緊張があります。

今日は、なんかまとまりのない話になりました。

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